2020/06/21【新型コロナウイルス:COVID-19】政治化された「エビデンス」 新型コロナ研究不正疑惑の波紋

新型コロナウイルス感染症の治療に関わる研究で不正疑惑が浮上した。複数の欧米の一流医学誌がこの研究論文のデータが信頼できないとして、掲載の撤回を発表したのだ。米国のトランプ大統領をも巻き込み、国際的に大きな注目を集めた研究だった。波紋は学術界の外へと広がっている。

◇有名医学誌が相次いで論文を撤回

英国の「ランセット」誌と米国の「ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM)」誌は6月4日、既存薬を利用した新型ウイルスの治療に関する研究論文の掲載撤回を相次いで発表した。
どちらも筆頭著者は米ハーバード大関連病院の医師で、シカゴに拠点を置くサージスフィア社がデータ分析を担っていた。
ランセットの論文は、抗マラリア薬ヒドロキシクロロキンが新型ウイルスの治療に有効かどうかを検証したもの。世界の671病院で治療を受けた約9万6000人の患者データを分析した結果、新型ウイルスへの有効性が確認できないばかりか、死亡リスクが高まる可能性があると指摘した。
だが5月22日に論文が発表されると、データの信ぴょう性について研究コミュニティーなどから疑問の声が上がった。新型ウイルスの被害が深刻な米国や欧州でサージスフィア社に患者データを提供したと認める医療機関が現れなかっただけでなく、論文で示された死者数などのデータも各国政府の公式発表と食い違いがあった。研究チームはデータの再検証にサージスフィア社の協力が得られないとして、二つの論文の撤回を申し入れた。

◇渦中の企業はホームページを閉鎖

サージスフィア社は、新型ウイルスの流行が世界的に広がった2020年3月まで目立った活動歴がない無名の企業だった。ホームページでは、世界1200の医療機関と協力して2億4000万人の匿名化された世界最大級の患者データベースを管理していると誇示。データ分析には人工知能(AI)を活用するとの記載もあった。しかし、英紙ガーディアンは、従業員に医学や機械学習のキャリアがあるとみられる人物は少なかったとして、サージスフィア社の活動実態に懐疑的な見方を示している。サージスフィア社は論文に疑義が生じた直後、ホームページで「独立した学術監査が行われることで、私たちの研究の質が強調される」との声明を発表したが、その後、ホームページは閉鎖された。
疑惑の企業が研究に参加した経緯をたどる前に関係者を整理しておこう。撤回された論文には、米国を拠点とする3人の心臓外科医が共通して名を連ねていた。
▽マンディープ・メフラ氏 …米ハーバード大学医学部教授で、関連施設のブリガム・アンド・ウィメンズ病院心臓血管センターの責任者。学術誌に200本以上の査読付き論文を発表した実績があり、米科学誌サイエンスは「スター研究者」と評する元共同研究者の声を伝えている。ランセットとNEJM論文の研究を統括した。
▽サパン・デサイ氏 …サージスフィア社の最高経営責任者。米メディアによると、研修医だった00年代後半に同社を創業した。当初は医療用の教科書などを扱っていたが、最近は主要なサービスとして患者データベースの提供と分析を掲げていた。今回の論文撤回を受けて、デサイ氏が過去に発表した別の論文にも不正の疑いが指摘されている。
▽アミット・パテル氏 …論文発表時の所属は、米ユタ大学生体医工学部で無給の非常勤講師だった。ユタ大学の広報担当者によると、論文撤回翌日の6月5日付で「相互の合意」に基づいて解任された。大学側は解任の理由は「コメントできない」としている。過去には再生医療分野でランセットに掲載された共著論文がある。

◇ハーバード大教授の謝罪

毎日新聞の取材依頼に対し、ハーバード大のメフラ氏は病院を通じて文章を寄せた。
それによると、メフラ氏は新型ウイルスのパンデミックを受けて「科学と患者のケアに寄与するタイムリーなデータの提供が不可欠」だと考えていた。そこに旧知のパテル氏を通じてデサイ氏とサージスフィア社を紹介され、共同研究に合意したという。メフラ氏の提起した研究課題に対して、サージスフィア社が保有するデータの分析結果を提供。それを基にランセットとNEJMの論文を執筆した。
掲載直後にデータが不自然だとして複数の研究者から疑義が浮上すると、メフラ氏はサージスフィア社に再解析を求め、さらに独立した第三者機関に調査を委託した。これに対し、サージスフィア社は「機密情報を含み、提供者との合意」に反するとして元データの開示を拒んだという。
これを受けてサージスフィア社のデサイ氏を除く共著者は、「データの出所や信ぴょう性、そしてそのデータから導いた知見に確証がなくなった」として両誌に撤回を申し入れた。メフラ氏は「非常に必要性の高い研究に貢献したいという希望があり、使用するデータが適切であるかを十分に確認しなかった。直接的にも間接的にも、混乱を招いたことを心より申し訳なく思う」と謝罪した。
以上は、あくまでメフラ氏による説明である。
デサイ氏とサージスフィア社にもメールでコメントを求めているが、6月12日現在で返答はない。英紙フィナンシャル・タイムズによると、ランセットを発行する学術出版大手エルゼビアは、サージスフィア社が関与した20本近い論文を調査するという。改ざんの有無、あるいはサージスフィア社が保有していると主張するデータベースが実在しているかが今後の焦点となる。
なぜ権威ある学術誌がずさんな論文を掲載してしまうのか。研究不正が表面化するたびに繰り返されてきた問いだが、いまだに決定的な防止策は存在しない。
学術誌が論文の掲載を決める際のチェック機能の一つに査読(審査)がある。論文のテーマごとに実績ある複数の研究者が正体を隠してボランティアで行うことが多い。ただし査読者には意図的な不正を見抜くことは期待できない。論文が首尾一貫しているか、新規性があるかを確認するのが主な役割だからだ。
しかし、ひとたび問題がある論文が発表されると、「クラウド査読」と例えられる集合知を生かした検証がウェブ上で始まる。STAP細胞事件(※1)などはその典型例だった。今回の事案でも研究者コミュニティーによって問題点があぶり出され、英紙ガーディアンなどの調査報道が後押しした結果、掲載から数週間で撤回に至った。この点では、今回もアカデミアやジャーナリズムによる浄化作用が発揮されたと評価することができる。
問題は、今回の撤回論文がもたらした政治的な影響の大きさだ。

◇トランプ批判に使われた「エビデンス」

抗マラリア薬ヒドロキシクロロキンは、トランプ米大統領が新型ウイルスの治療に効果があると主張し、5月18日の記者会見で毎日服用していると明かして波紋を呼んだ。ヒドロキシクロロキンが新型ウイルスの予防や治療に有効であることを明確に示す研究成果はないが、トランプ氏は電話や手紙で肯定的な話を聞いたなどと説明していた。
「新型ウイルスへの有効性が確認できなかった」とするランセット論文が4日後に発表されると、トランプ氏の主張を否定する成果だとして米国内外で大々的に報じられた。世界保健機関(WHO)や英国、フランスでは、安全上への懸念からヒドロキシクロロキンを使った臨床試験が一時的に中断されるなどの影響も広がった。
筆頭著者のメフラ氏は論文発表後、メディアのインタビューで「新型ウイルス治療でヒドロキシクロロキンの使用は直ちにやめるべきだ」と主張。英スカイニュースに対しては「我々の研究の結果かどうかは知らないが、(トランプ)大統領はヒドロキシクロロキンの服用をやめたと聞いた」と誇らしげに語っていた。
こうした言動を見る限り、メフラ氏は科学を軽視するトランプ氏の主張を正すことに意義を感じていたのではないか。しかし彼らが依拠した「エビデンス(科学的根拠)」もまたフェイクだったのは、実に皮肉な結果である。
トランプ氏の主張を支持する研究はその後も発表されていない。ヒドロキシクロロキンを新型ウイルス治療薬の候補として臨床試験を行っていた英オックスフォード大は6月5日、新型ウイルスに対する効果は認められなかったとして臨床試験の打ち切りを発表した。
一方、メフラ氏ら3人は撤回された2論文とは別に、抗寄生虫薬イベルメクチンが新型ウイルスの治療に有効とした研究成果を4月半ばに報告しており、査読前の論文ながら国際的に注目を集めた。イベルメクチンはノーベル医学生理学賞受賞者の大村智・北里大学特別栄誉教授が開発に貢献し、寄生虫が原因の熱帯感染症の特効薬としてアジアやアフリカで多くの人の命を救ってきた薬だ。
米科学誌サイエンスによると、メフラ氏らの報告を受けて、ペルーでは新型ウイルスの治療指針にイベルメクチンが加えられたほか、ボリビアでも新型ウイルス治療薬として使用が認められ、無料配布も計画されたという。しかし、この研究でもサージスフィア社のデータが使われており、査読前の論文を公開するウェブ上のプラットフォームから告知なしに削除された。

◇拙速なワクチン開発への警鐘

今回の事案は、新型ウイルスのワクチンと治療薬をめぐる過度な開発競争にも一石を投じている。
とりわけ社会経済活動の正常化につながるワクチンは、米中を中心に莫大(ばくだい)な研究費が投じられ、政治が介入して前例のない速さで開発が進む。薬事承認のための治験は法律で厳しいデータ管理が求められ、改ざんなどの違反時に罰則があるため、不正に対する一定の抑止力がある。それでも専門家からは拙速な動きに懸念の声が上がる。研究公正に詳しい京都薬科大の田中智之教授は「医学の世界は(薬が作用する)メカニズムが分からなくても効果があれば良いという時代が長く続いてきた。そのため、今回のパンデミックのような緊急時には人体実験やむなしといった判断に傾きがちだ」と語る。
日本でも安倍晋三首相が、国内企業が開発した抗インフルエンザ薬アビガンについて、新型ウイルスの治療薬として「5月中の承認」をめざすと明言。現在も治験は続いているが、結果が出ていない段階で国のトップが医薬品の承認時期を明示するのは異例だ。これに対し、日本医師会の有識者会議は5月中旬に発表した緊急提言で「有事だからエビデンスが不十分でも良い、ということには断じてならない」と指摘。過去の薬害事件などに言及した上で、「『科学』を軽視した判断は最終的に国民の健康にとって害悪となり、汚点として医学史に刻まれる」と警鐘を鳴らした。
新型ウイルスをめぐる研究の緊急性・公益性は極めて高い。「打つ手がないときに何もしないことは非常に忍耐が必要になるが、一方で詐欺的な主張に惑わされる患者の不利益に目を向ける必要がある。緊急時であるからこそ、ワクチンや治療薬開発のステップを監視する独立した国際組織(レッドチーム)を結成するといった配慮が求められる」。田中教授は、今回の研究不正疑惑がもたらした教訓を重く受け止めるべきだと考えている。

(※1)STAP細胞事件

理化学研究所などの研究チームが2014年1月、新しい万能細胞「STAP細胞」の作製に成功したと英科学誌ネイチャーに発表。直後からウェブ上で疑義が広がり、理研の調査委員会が図表の捏造(ねつぞう)を認定した。関連論文2本が撤回され、理研の検証実験でもSTAP細胞は作製できなかった。
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